楠木正成一族/楠木家の子孫が同窓会!アルゼンチンサムライ軍団

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アルゼンチンで楠木正成一族を名乗る

ニセ殺陣集団がぶっこみジャニーズで紹介されます。

 

楠木正成といえば、

武士として志を貫いた名武士であります。

 

その楠木正成という名を名乗っての

アルゼンチンという異国で活動している

何やら風変りな集団のリサーチを番組内で

放送されるのですが

楠木正成さんは、アルゼンチンに縁があるのでしょうか?

現在の子孫が気になります。

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楠木正成さんのプロフィールや歴史等合わせて

調べてみました。

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楠木正成の出身地や家族は?wiki風プロフィール

名前:楠木正成(くすのき まさしげ)

改名:多聞丸(幼名)→兵衛尉→正成

別名:大楠公

神名:南木明神

戒名:霊光寺大圓義龍卍堂

生年月日:1294年(推定)

氏族:楠木氏

君主:後醍醐天皇

父:楠木正遠(推測)

母:橘盛仲の娘

兄弟:俊親(正俊)、正成、正季、正家

妻:不明

子供:正行、正時、正儀

死没:1336年7月4日(42歳)

墓場:観心寺(大阪府)

官位:兵衛尉、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国守護、贈正一位

戦略:ゲリラ戦法

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楠木正成氏は

大阪府南河内郡千早赤阪村に

居館を構えていたということです。

 

自出については

駿河国や悪党的な荘官武士等

様々な説があります。

 

父親は確定した事実はありませんが

推定では、楠木正遠氏

母親は、橘盛仲の娘

ではないかということです。

 

過去のことなので

確定した事実が書物等なので

推測するのが難しそうです。

 

楠木正成氏は、結婚され

子供もいました。

妻の名前は不明だそうです。

 

三人の子供はその後、父を引き継ぎ

武士として活躍されてます。

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楠木正成の経歴は?どんな武士だったの?

 

楠木正成氏が一気に世間に知られた事件は

 

1322年に起こった

渡辺党、湯浅氏、越智氏の討伐成功です。

ネイバーまとめより

この討伐成功により

六波羅氏に怖れを感じさせ

世間の人々にも強烈な印象を与えます。

 

鎌倉幕府も楠木正成氏が

幕府に対して反乱することを

恐れたという程だったそうです。

 

当時は、その戦略や武士としての腕前が

ピカイチだったことが伺えます。

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1331年:後醍醐天皇の倒幕計画に加担する

 

後醍醐天皇が見たお告げに従い

楠木正成氏を頼って倒幕に加担を依頼しました。

 

 

そして、幕府討伐の戦いを赤坂城で行います。

かなり奮闘した戦いで

幕府も手を焼きました。

 

その為、長期戦になりましたが

赤坂城が一時的に作ったものなので

戦いの場である城自体が物理的に持たなくなります。

 

楠木正成氏はその城に火をつけ、

行方をくらませました。

幕府は、城の焼け跡から

遺体を20前後発見し

それを楠木正成氏一味と勘違いし

一旦戦いが終了します。

 

元々楠木正成氏は鎌倉幕府の北条氏に従えていた

得宗被官でした。

 

しかし、その立場から一転したため

楠木正成氏は鎌倉幕府からは

「悪党楠兵衛尉」として追及を受けます。

 

赤坂城は、幕府側の

湯浅宗藤氏(湯浅孫六入道定仏)

の領地になります。

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1332年:赤坂城を取り戻す

 

楠木正成氏が得意の戦法である

ゲリラ戦を行います。

 

城のものにわからねよう忍び込み

湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏しました。

 

瞬く間に和泉・河内も制圧し、

京にまで攻め込みます。

 

それを阻止するため

六波羅軍は渡部橋まで5千の棋士を引き連れて

進みますが

 

楠木正成氏の2300騎に敗北します。

そして、この奮闘が広がり

あちこちから反幕府が立ち上がっていき

 

倒幕が拡大されていったのです。

 

楠木正成氏のカッコイイところが

 

「庶民に迷惑をかけてはならぬ」

 

すべての将兵に礼を以て接したことです。

その為に

楠木正成氏についていく武士が多かったのです。

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1333年:鎌倉幕府滅びる

 

楠木正成氏は千早城、上赤坂城、下赤坂城の

3城を以て

護良親王氏と幕府に立ち向かいました。

 

その活躍に触発されて

倒幕の機運が各地に広がります。

 

触発さてた足利高氏(のち尊氏)が

5月7日に六波羅を攻め落とします。

5月22日には

新田義貞氏が鎌倉幕府を滅ぼします。

 

幕府は今回の戦いで使った軍資金の調達のため、

新田荘に対し

 

破格の6万貫もの軍資金を

わずか5日で納入するように迫ったことが

原因でした。

 

楠木正成氏があってこその

幕府滅亡だったのです。

名武士であります。

 

1334年:後醍醐天皇の建武の新政が始まる

 

新政が始まり楠木正成氏は

後醍醐天皇の絶大な信任を受け様々な役職を担います。

しかし、事件は起こります。

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1334年役職の辞退

護良親王が謀反の嫌疑で捕縛し

足利尊氏に引き渡された為

楠木正成氏は役職の多くを辞職しました。

 

辞職した後に

新田義貞氏や足利尊氏が新任したものと思います。

しかし、

1335年に中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、

鎌倉で新政に離反します。

 

その為、後醍醐天皇が

新田義貞氏に追討を命じました。

 

残念ながら敗北します。

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1336:年足利尊氏に勝利

 

楠木正成氏がこの戦いの再度挑み

勝利しました。

 

この時、足利尊氏の首は

とれませんでした。

Wikipediaより

足利尊氏一味は九州に逃げ

その後、勢力を拡大して

再び京に攻め入ります。

 

 

勢力を拡大していく足利尊氏を討伐する為

後醍醐天皇は新田義貞氏に命じます。

 

この時、楠木正成氏は

足利尊氏と和解するよう話したのですが

後醍醐天皇は聞きませんでした。

 

しかし、新田義貞氏率いる軍は

足利尊氏と戦う為、九州に向かう道中で

その勢力が弱まっていってしまします。

 

一方足利尊氏は勢力を拡大している為

新田義貞氏に勝ち目はありません。

 

楠木正成氏は一度京に軍を戻すよう話したのですが

後醍醐天皇は坊門清忠の意見を尊重し

楠木正成氏にそのまま応戦するよう命じられました。

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1336年5月:桜井の別れ

楠木正成氏は戦に参戦する為

「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と

息子を

桜井の宿から河内へ帰したそうです。

 

1336年5月のちに

桜井の別れ 

で有名になります。

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1336年5月:自害

戦はかなり奮闘されましたが

やはり数からして勝てず

戦に疲弊した楠木軍70余りは

東の村の民家に駆け込みます。

その場で楠木正成氏は

楠木正季氏と刺し違えて

自害し果てました。

 

共に戦った楠木軍も共に自害し

皆炎の中に倒れ込んだのです。

 

兄弟の楠木正季氏は「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と語り

それに同意した楠木正成氏は

皆に「さらばだ」と別れを告げ自害されたそうです。

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1348年:四条畷の戦いで子供戦死

 

その後1348年四条畷の戦いで

父の敵を討つため

楠木正成氏の子供が奮闘し、

あえなく戦死されてます。

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楠木正成の現在の子孫は?アルゼンチンで同窓会?

楠木正成氏の一族は今も続いてます。

 

以下のホームページに

楠木同窓会がありました。

楠木同族会|楠木正成公を祀る神戸の名社|湊川神社 | 関西 神戸の地に鎮座する名社「湊川神社」|七五三・厄除け
楠木同族会は楠公崇敬の会であり、楠木家の血縁関係について審査・証明を行ってはおりません。会員個々の活動内容、SNS等での発言等について一切無関係で、内容の保証、責任を負っておりません。特定の政治家・政治団体を応援する団体や、ヘイトスピーチ団...

 

場所は

兵庫県兵庫市にある湊川神社です

 

1336年の

あの自害した

湊川の戦いの場所です。

インスタより

楠公さんとして有名な神社です。

ここには、かわいいお守りがありますよ。

 

 

楠木同窓会は

アラビア石油社長で名をはせた

故山下太郎氏が初代会長を務めておられました。

 

サウジアラビアと、アルゼンチン、、、

国が違いますね。

 

しかし、山下太郎氏の活躍で

楠木正成氏が異国の国で

有名になってるかもしれません。

 

 

※さむらいアーティスト集団として

異国の国で活躍をされている集団がおりました!

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まとめ

 

楠木正成氏は、

鎌倉幕府を滅ぼし

後醍醐天皇が新政を開いたきっかけになった

最強の武士でした。

 

楠木正成氏は

ゲリラ戦法を得意としており

その戦略から多くの勝利を勝ち取りました。

 

最後は足利氏に負けてしましますが

その武士としての志は

最後まで錆びることはありませんでした。

 

楠木正成氏の武士魂は

楠木同窓会によって

子孫によってなお引き継がれてます。

 

そして、楠公さんと親しまれている

神社に祀られているのです。

 

今回の番組では、

アルゼンチンでサムライ集団があるということですが

おそらく、

楠木同窓会の会長によって知れ渡ったのではないかと思います。

 

その集団は、アルゼンチン風になってるそうなのです。

 

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